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大日本帝国の実在よりも戦後民主主義の虚妄に賭ける

1 :右や左の名無し様:2007/09/15(土) 13:38:10 ID:LW7qBRvo
1996年に82歳で亡くなられた丸山真男氏という、戦後民主主義
を代表する思想家がおられます。
 かつて丸山は「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」
と書いた。かれは、いったい戦後という時代のはじまりに、その時代の終わりとして
何を見たのか。いったい何を守ろうとしてその身を「賭け」たのか。
 丸山は「『である』ことと『する』こと」(『日本の思想』)に、こう書いて
いる。「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化ー物神化ーを不断に
警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きた
ものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。
つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうる
ような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりも
プロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」
 丸山は「八・一五」に革命があったと考えた。丸山にとって守るべきものは、実在の
「戦後民主主義」ではなく、本来虚構的な「民主主義」という理念そのものだった。そのこと
 「八・一五」に対する丸山の意味づけは、流動的である。敗戦直後は「民主革命」として
とらえ、六十年安保闘争の後では「平和主義」として意味づけるようになる。これは思想に
一貫性がないのではなく、不断に「戦後民主主義」の規定が更新され続けた結果であるだろう。
丸山は『現代政治の思想と行動』に、「『永久革命』とはまさに民主主義にこそふさわしい
名辞である」と書いている。丸山にとって「戦後民主主義」はひとつのプロセスにすぎなかった。
丸山氏がなぜ「民主主義の永久革命」者であろうとしたのか?

日本の民主主義はこれからなのではないでしょうか?

2 :右や左の名無し様:2007/09/16(日) 14:55:24 ID:6jnvZfiE
(超国家主義の理論と真理)
そもそも近代国家はナショナリズムを本質的属性とする。各国とも帝国主義的膨張主義
で拮抗していた時代である。そのような環境下で何故日本の国家主義がウルトラ級と言われる
のか?その由縁が欧米の国家主義と比較することで明らかにされる。
宗教改革、市民革命を経由した欧米の国家は“中性国家”で有る事に大きな特色がある。
欧米に於いて国家は“真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした選択
と判断は専ら他の社会的集団(例えば教会)ないしは個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば
かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである”公権力は
技術的性格を持った法体系の中に吸収される。
しかるに日本の国家は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。
例えば“教育勅語”で日本国家が倫理的実体としての価値内容の独占的決定者たることを宣言
するのである。国家が“国体”において真善美の内容的価値を占有、全てが“国家”に寄りかかる。
“国家のため”の学問・芸術・国民。
ここでは私的なものが私的なものとして承認される事はない。私的なものは悪か悪に近い何か後ろめたい
物になった。ここまでは周知の事実かも知れない。さて そこから素晴らしい驚くべき論理展開がなされる。
“私事の倫理性が自らの内部に存せずして国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しに
すれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に進入する結果になる”

3 :右や左の名無し様:2007/09/16(日) 15:05:04 ID:6jnvZfiE
国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内在的正当性
の規準を自らのうちに持っており、従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を越えた一つの
道義的規準には服しない“
“それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる
振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである”
“真善美”の価値体系は天皇を長とする権威のヒエラルキーが決定する、法はヒエラルキーに
於ける具体的支配の手段となる。支配層の日常的モラルを規定するのは抽象的法意識でも内面的罪
の意識でも民衆の公僕観念でもない。天皇への感覚的親近感のみとなる。結果自己の利益を天皇の
利益と同一化、自己の反対者は直ちに天皇に対する侵害者と見なされる。支配者は天皇の御名を
唱える事で自らの行動を全面的に正当化する事が出来るのである。“統帥権”、王に直属し王の名
を取れば全てが許される。
誰が天皇に近いか、各分野がそれぞれ究極的権威(天皇)への直結によって価値付けられる結果、活動的・侵略的
なまでに自己を究極的実体に合一化しようとする衝動から生ずるセクショナリズム。
究極的権威への親近性による得々たる優越意識と、権威の精神的重みをひしひしと感る臣下としての小心さ。
そこには“独裁”観念すら生ずる隙間がない、独裁のもつ個人的責任の自覚は生じない。
独裁観念にかわって、上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に委譲して行くことによって全体の
バランスを維持する“抑圧の委譲による精神的均衡の保持”
絶対的権威である天皇すら無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負うことで、その責任を免れる。
全てが王の御名を唱え国家に寄りかかる事で自らの急進的行動を正当化する無責任の体系。
“「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を
強める循環過程”



4 :右や左の名無し様:2007/09/16(日) 15:17:25 ID:6jnvZfiE
(日本ファシズムの思想と運動)
準備期  第1次世界大戦の終わった頃から満州事変頃に至る時期“民間における右翼運動
     の時代” 反共・反資本主義的民間右翼団体“猶存社”“建国会”“経綸学盟”“大化会”
     血盟団事件・三月事件
成熟期  満州事変頃(昭和6年)から二.二六事件(昭和11年)に至る時期
“急進ファシズム全盛期”
軍部特に青年将校と結びついた“下からの運動”
又 無産政党内部や在郷軍人や官僚を中心とする政治勢力も結成された
完成期  二.二六事件以後粛軍の時代から終戦まで“日本ファシズム完成期”
     二.二六事件を契機に“下からの運動”に終止符
官僚・重臣等半封建勢力と独占資本及びブルジョア政党間が不安ながらも連合支配体制
イデオロギー的特質
@ 家族主義的傾向   家長として国民の“総本家”としての皇室とその“赤子”によって構成された家族国家
A 農本主義的思想   プロレトリアート軽視
B 大亜細亜主義に基づくアジア諸民族の解放
  
運動形態の特質
@ 軍部及び官僚という既存の国家機構内部に於ける政治力を主たる推進力
大衆組織運動として発展せず少数者の“志士”の運動
A 少数者の観念的理想主義の運動として展開されたため
   空想性・観念性・非計画性
B 破壊主義“我々は破壊すればよい、あとは何とかなる”

社会的担い手における特質
   ファシズムは一般的に小ブルジョア層を地盤とするが
   中間層の2つの類型
    @小工場主・商店店主・小地主・小学校教員・下級官吏など“親方”“主人”層
    A都市サラリーマン・文化人・自由知識職業者・学生などの知識人に分けるなら
@ の疑似インテリ層である地方の小宇宙主人公を基盤とし
A の知識人層は文化的に孤立していた

5 :右や左の名無し様:2007/09/16(日) 16:39:53 ID:6jnvZfiE
歴史的発展の特異性
大衆的組織をもったファシズム運動が外から国家機構を占領するようなことはなく
下からの急進ファッショ運動のけいれん的激発を契機としその度毎に
軍部・官僚・政党など既存の政治力が国家機構の内部から
上からのファッショ体制を促進・成熟させていった
下からのファシズム運動は上からのファッショ化に吸収される
“皇道派”の急進的運動を契機に
“統制派”はもっと合理的に天皇を利用しながら自分のプランを上から実現した
かくて二・二六事件での急進ファシズム弾圧後
本来的に国民的基盤を持たない官僚
自らは革新の推進力と称しながら決して政治的責任を引き受けない軍部
ファッショ勢力と一戦を試みる闘志を失った政党
三者が挙国一致の名の下に鼎立競合する
更に 財界と軍部・官僚の利害が接近し独占資本と軍部の抱合体制が完成していく
日本のファシズムは“下からの運動”として成立せず国民的基盤を持ち得なかったのは何故か?
 ブルジョア民主主義の欠如していたが為
“近代的人間類型”からほど遠い封建的浪人あるいはヤクザの親分的人間が右翼運動を起こす事
になり、明治時代の絶対主義的=寡頭的体制がそのままファシズム体制に移行したのである

6 :右や左の名無し様:2007/09/16(日) 16:49:10 ID:6jnvZfiE
(軍国支配者の精神形態)
ナチ指導者と日本戦犯の比較
ナチ指導者に比べ日本戦犯に無法者や精神異常者は少なく最高学府・出世街道を経て
日本の最高地位を占めた顕官が殆どである。先に述べた如く“無法者”タイプも日本
ファシズムに重要な役割を果たしたが彼らは権力的に就かず権力者に癒着していた
ところに特色がある日本戦犯はこれら“無法者”に感染し引き回された哀れなロボット
であったと言えよう自己の行動の意味と結果をどこまでも自覚しつつ行動するナチ指導者
と自己の現実の行動が絶えず主観的意図を裏切っていく我が軍国指導者一方はヨリ強い
精神であり一方はヨリ弱い精神である弱い精神が強い精神に感染する弱い精神には
無計画性と指導力の欠如が随伴するナチ戦犯裁判に見る“ヨーロッパの伝統的精神に自覚的
に挑戦するニヒリストの明快さ、悪に敢えて居座ろうとする無法者の啖呵”対し東京裁判被告
の答弁はうなぎのようにぬらくらし霞のように曖昧であるそして見よ、被告を含めた支配層
一般の戦争に対する主体的責任意識の稀薄。

7 :右や左の名無し様:2007/09/17(月) 13:25:11 ID:UdsUytsk
日本ファシズムの矮小性
@ 既成事実への屈服・権限への逃避
現実はつねに未来への主体的形成としてでなく過去から流れてきた盲目的必然性として
捉えられる。“無法者”の陰謀が次々とヒエラルキーの上級者によって既成事実として
追認され最高国策にまで上昇する。そしてもっともらしく責任が回避される“それでは
部内が収まらない”“それでは英霊が収まらない”“もっぱら上からの権威によって統治
されている社会では、統治者が矮小化した場合、むしろ兢々として部下のあるいはその他
被治者の動向に神経をつかい、下位者のうちの無法者あるいは無責任な街頭人意向に実質的
に引きずられる結果となる”上からの絶対的権威によって支えられた社会こそ“下克上”
(無責任な力の非合理的爆発)を呼び起こし易いプロセスが解明されています。
更に“抑圧委譲の原理”によって ヒエラルキー最下位に位置する民衆の不満のはけ口が
排外主義と戦争待望気分に注ぎ込まれる。支配層が不満の逆流を防止するため、そうした
傾向を煽るのである、そしていよいよ危機的段階に於いて支配層は、逆にそうした無責任な
“世論”に屈従して政策決定の自主性を失うのである。無責任・無計画・無指導性の循環が
完結する。
A “訴追されている事項は官制上の形式的権限の範囲に属さない”と言う責任回避
東京裁判で述べられた責任回避の理屈である。
被告の大部分は帝国官吏であった。M・ウェーバーの“官僚精神”が遺憾なく発揮される。
彼らの仕事は政治的事務なるが故政治に容喙しうるのであり、政治的事務なるが故政治的責任
を解除されたのである。自己にとって不利な状況のときには何時でも法規で規定された厳密な
職務権限に従って行動する専門官吏を装うことが可能なのである。
天皇の権威を“擁し”て自己の恣意を貫こうとした軍部・右翼勢力はただひたすらに天皇の
“神権”を実現すべく“地位”に定められた事務を実行したと言う、しかしカリスマ性を自ら
抑圧した立憲君主たる天皇は“聖断”を実行して自ら責任を取ることを避ける。かくて人格の
ない無責任な匿名の力だけが乱舞する。

8 :右や左の名無し様:2007/09/17(月) 13:27:47 ID:UdsUytsk
日本ファシズム支配の“無責任の体系”
神輿=権威
役人=権力
無法者=暴力
神輿は単なるロボットであり“無為にして化する”
役人は神輿を直接擁する正当性を権力基礎として人民を支配するが、最下位にある
無法者に尻尾を掴まれ引き回される。
一方無法者には“権力への意志”はなく無責任に暴れて世間を驚かせ快哉を叫ぶ
のみである。
3つの類型は固定的ではなく一人の人間がこれらの類型を混在させる事もある。
しかし無法者がより役人的、神輿的に変容することで上位に昇進する事があっても
無法者が無法者としてそのままに国家権力を掌握することはなかった。

9 :右や左の名無し様:2007/09/17(月) 13:58:16 ID:UdsUytsk
丸山真男の全体主義の図式 日本のファシズムの特徴
1.家族主義
福沢諭吉「一身独立して、一国独立する」
しかし伊藤博文など大日本帝国憲法の制作者たちはヨーロッパのキリスト教
に代わって天皇制によって日本を一体化させようとした
よって【国家(天皇)→ 中間共同体 → 個人】が結びつく
天皇の赤子としての国民/その雛形としての中間共同体
・教育勅語のような道徳を重視する→中性国家ではない
・ヨーロッパ的な公領域/私領域という区別がない
2.農本主義
反中央集権的・田園賛美的
ファシズム運動が起こったもっとも大きな動機は昭和恐慌以降の農村の窮乏化
ナチスが労働者を重視したのとは対照的
・ 日本でのファシズム運動を担ったのはインテリ層(ヨーロッパ的教養を持つ人間)
ではなく亜インテリ層(土着の権力者)
→日本におけるインテリ層の大衆からの孤立
3.無責任の体系(無限責任=無責任)
「明治憲法において『殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない』大権中心主義や
皇室自立主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など
超憲法的存在の媒介によらないでは国会意思が一元化されないような体制が
つくられたことも、決断主体(責任の所属)を明確化することを避け、
『もちつもたれつ』の曖昧な行為関連(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が
冥々に作用している」
「『神輿』はしばしば単なるロボットであり、『無為にして化する』。『神輿』を
直接『擁』して実権を振るうのは文武の役人であり、彼らは『神輿』から下降する
正当性を権力の基礎として無力な人民を支配するが、他方無法者に対してはどこか
尻尾をつかまえられて引きまわされる」
・日本ファシズムの矮小性/指導者の指導意識の希薄
・ナチスやイタリアファシズムが大衆運動から出発した(下からのファシズム)
のに対して日本のファシズムは上からのファシズムである

10 :右や左の名無し様:2007/09/17(月) 16:34:29 ID:UdsUytsk
丸山氏がなぜ「民主主義の永久革命」者であろうとしたのか?

丸山氏にとっていちばん恐ろしかったことは、「大東亜戦争」イデオロギーの破綻後
「開国」のやり直しによってようやく手にした「民主主義」が、かつての進化論や
啓蒙思想のように、日本的共同体のブラックホールのなかに吸い込まれて解体されて
しまうことだったのではないだろうか。「民主主義」が日本のムラ的共同体を粉飾する
ための論理にすりかえられ、ひいてはそれが日本を国際社会への不適応に導き、そして
日本を戦争に導くこと――それが丸山氏にとってもっとも恐ろしい悪夢ではなかったの
だろうか?

丸山氏が「民主主義」者として認めたのは、「民主主義」をつねに問い直し、それを道具
として用いて社会的な現実と対抗することをつづけている者のみである。自分が「民主主義者
である」という自惚れに安住し、自分の(丸山氏のいうような)「ムラ的共同体」的な行動に
対して無反省な者に「民主主義の永久革命」者である丸山真男の同伴者たる資格はない。

11 :右や左の名無し様:2007/09/17(月) 17:04:15 ID:v0DMnEdN
九段の廃社を根城に、戦後の日本国の暴力的共産化、その朝鮮人の革命の野望は、昭和24年9月末、GHQの解散命令で、夢と消えた。
以降、その勢力は、日本の裏社会にパラサイトして、マフィア化。
さて、東西冷戦終了後、この極東で焦点の朝鮮民族統一問題、日本独立解放問題と、不可分の関係。
その世界の時流に危機感を覚えた、朝鮮人パラサイト、国際的に、不和煽動。
それこそ、自分で自分の首を締め上げる、愚行。

12 :右や左の名無し様:2007/09/23(日) 12:46:26 ID:K20ovlub
丸山の日本国憲法「理解」

 第1に、憲法の国民主権、民主主義に関して、丸山は、憲法に規定された民主制度
 を「硬直化」、「形骸化」させないために、主権者となり、自由な決定の主体と
 なった 国民が、デモクラシーの理念に照らして、絶えず、その制度の働きを監視
 批判しなければならない。つまり、国民の下からの「革命」運動は、憲法体制化した
 民主主義のもとで「永続」させなければならないと解した。

 第2に、「国体」の呪縛から解放された個々の国民の自由に関して、国民は
 「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうる」こと、
 その自由は「政治秩序に絶えず立ち向かおうとする精神」であって、
 「個人の内面的な規制力」に依拠するものでなくてはならぬと解した。

 第3に、憲法第九条について、それは現実の国家の政策を不断に方向づける
「理念」として理解すべきであり、「武装しない国家」という理念は、従来の
 国家概念の再定義を迫るものだと説いた。

 いずれの提言も、丸山がわれわれに後進に託した重い課題である。

13 :とぼけた奴 ◆i3FjaNbBfI :2007/09/23(日) 20:34:02 ID:K5JjpW3w
酒飲んで酔っ払ってるから、まともに読んじゃいなくて申し訳ないんだが、
丸山がナンボのもんじゃい。
東大にしがみ付くしか能のない学者様やろうが。

14 :右や左の名無し様:2007/09/24(月) 01:23:17 ID:2atoImvH
ファシズムは認めないけれど
戦後民主主義は権力によって今、ボロボロだ。
市場主義を持ち上げた結果がこれ。
格差が大きく開いていき、イギリスや欧州諸国にみられる社会主義傾倒民主主義へ移行するだろう。
社会の害悪は政治思想云々以前に、イデオロギーを常に利己的に利用しようとする者から始まる。だから右翼だ左翼だ帝国だ民主主義だ、はそもそも虚妄。
明確なのは、個々人を幸福にするのは帝国主義でも戦後民主主義でも共産主義でも社会主義でもなかった、ということだ。
国という拠り所を守るのであれば、保守的にならざるを得ない。
なぜなら愛国心というものがなければ国は境が無くなってやがて消滅するからだ。
個々人の自由と平和を守ることができうる思想は現在、存在しないとも言える。

15 :右や左の名無し様:2007/09/30(日) 13:51:33 ID:O67wC8uf
丸山真男
1960岸信介内閣による日米安全保障条約の改訂に対する反対運動に際して。
自民党政府、岸政府によって、個別的、断片的になされてきた民主主義と憲法の
蹂躙のあらゆる形が、あのよるに、集中的に発言された・・・もし私たちが
19日から20日にかけての夜の自体を認めるならば、それは、権力がもし欲すれば
何事でも強行できること、つまり万能であることをみとめることになります。
権力が万能であることを認めながら、同時に民主主義を認めることはできません。
「選択のとき」より

「岸政府の暴挙で争点は単純化された」といい、いまや
「権力の万能か、民主主義が、どちらかを選ばねばならない」を発言する。
もし当時首相が岸信介じゃなかったらこれだけ反対運動が盛り上がったか・・・
A級戦犯だった岸信介首相が国会で強行採決をしたからこそ争点がずれ、闘争が
盛り上がったようだ。岸信介は、北一輝の著作を熟読し傾斜したという。
北一輝とは、2,26事件で民間人でただ1人処刑された思想家である。
天皇を中心とした国家社会主義者だ。

 安倍さんのおじいさん。岸信介

16 :右や左の名無し様:2007/10/02(火) 15:19:15 ID:dnmkTwVF
丸山真男は、政治のシロウトが政治の関心をもたなければ真の民主主義は
なりたたないという。
民主主義が現実的に機能させるためには、民衆の日常生活のなかで、政治的
社会的な問題が討議されるような場が与えられねばなりません。
自由権とか抵抗権とかいう考え方というものは、政治的集団と全く独立な自主的
集団というものの考え方が根づかないと成長しないんじゃないかと思う。
文化とか教育とか政治以外の価値基準をもとにした人間の社会的結合というものが
よほど根づかないと、どうも国家とか政治に対する自由とか抵抗とかという
考え方が定着しない。(政治の支配に抵抗できる非政治で自由な自主的な集団)
大衆の自己訓練能力、つまり経験から学んで、自己自身のやり方を修正していく。
大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしそういう
錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を
政治的に教育していく意味をもつ。これが他の政治形態にないデモクラシーが持つ
大きな特色であります。

17 :右や左の名無し様:2007/10/08(月) 14:49:22 ID:rSuDZn3v
丸山真男は
晩年、オウム真理教等の日本の情況を「私の青年時代を思うと、
日本中、オウム真理教だったのではないか。外では通用しないことが、
内では堂々とまかり通る。違った角度から違った照明を当てることができない。
今も昔も『他者感覚のなさ』が問題だ。一人一人の知的水準は高いのに、
判断となるとなぜかおかしい」と危惧した。

18 :右や左の名無し様:2007/10/10(水) 13:59:53 ID:9W3gcr+z
丸山の追求した「近代的意識」とは、「主体的個人と民主国家との民主主義的自己同一性」
(=「民主主義原理」)と「個人の個体的存在としての自立性・尊厳性」(=「自由主義原理」)
という両極の追求と、その相互対立と緊張関係についての自覚(=「アンチノミーの自覚」)
を内容とする意識であり、また、丸山の求める「近代」とは、こうした「内面的緊張」
をともなう「近代的意識」によって支えられた永続する「民主化のプロセス」
(=「『永久革命』としての民主主義」)のことにほかならなかったのではないか
ということである。

19 :右や左の名無し様:2007/10/17(水) 12:24:08 ID:hc871le2
丸山の求める「近代」が、「永久革命」として永続する「民主化のプロセス」
を意味するのだとすれば、それは、なんらかの意味で「達成」されたり、「乗り越え」
られたりしうるような段階ではもちろんありえないし、かつて日高六郎が「近代主義」
と「社会主義」の関係を論じるときに比喩として用いたような「下車駅」ですらも
ありえないことになる。それは、まさに「近代資本主義よりも古く、またいかなる
社会主義よりも新しい」ものなのである。そして、こうした意味での「近代」を支える
「近代的意識」の形成という点では、丸山によれば、それはいまだ日本においては
未達成の課題なのであり、われわれはいまだ、丸山の求めた
「近代」=「永続する『民主化のプロセス』」の端緒にすらたどりついていない
ということにもなるのである。もちろん、西欧先進諸国にしたところで、「近代」
というプロセスの途上にあるのでしかないのだが。

20 :右や左の名無し様:2007/10/25(木) 13:04:07 ID:MEJqMxtb
丸山真男の言う、近代日本における第一の開国とは、徳川幕府の崩壊、明治維新、
1868年です。第二の開国とは、太平洋戦争の敗戦、天皇制の崩壊、1945年です。
この定義に日本人の誰も異論はないでしょう。それでは、「第三の開国」はある
のでしょうか。それでは、第三の開国ではいったい何が崩壊するのでしょうか。
野口悠紀雄著「1940年体制、さらば戦時経済」(東洋経済新報社)を読むと、
1940年体制を崩壊させなければならないことになります。
1940体制とは、日米開戦に備えて構築された、国家総動員の軍産官支配体制
(有事体制)です。戦後の「1940年体制」とは、戦後民主主義のコロモを
まとった、政官財の封建的支配体制となります。
これについても、ほとんどの国民に異論はないでしょう。なぜなら2001年、
「自民党をぶっ壊す!」とか「聖域なき構造改革」などと言う、物騒な
「自己否定」をスローガンにした小泉内閣が出現したからです。
誕生当時の小泉内閣が80%を超える熱狂的国民支持率を得た事実からも、
国民の多くが「戦後型1940年体制」の崩壊をいかに強く願っているかが窺えます。

21 :右や左の名無し様:2007/10/25(木) 13:11:42 ID:MEJqMxtb
さて丸山真男の呼んだ「原型、古層、執拗低音」とは、戦後においても、
1940年体制、すなわち政官財の鉄壁の三角形構造に執拗に巣食っているのでは
ないでしょうか。また、丸山真男の呼んだ、有名な「である」社会と「する」
社会の対比に関して、解釈は、「である」社会とは、日本的封建社会であり
「する」社会とは、競争的民主主義社会となります。「である」社会では、無能で
肩書きだけの「である」人材が支配者となったとき、社会も組織も迷走するリスク
が非常に高まる。当たり前のことです。ところが、戦後の政官財支配体制の古層
のみならず支配される国民意識の古層にも、「である」社会の封建的価値観が根強く
横たわっていると考えます。だから、今、日本が沈没しかかっているのは無理も
ないのです。もうひとつ、丸山真男の言う「タコツボ」組織と、「ササラ」
(竹の先端を細かく割った道具)組織に関しては、端的に言うと、「タコツボ」
は日本型組織で、「ササラ」は欧米型組織と解釈できます。日米組織を比較すれば
普遍的な基本原理(Discipline)や使命感(Mission)に乏しい日本型組織が
「タコツボ」化するのは自明の理です。
 日本支配層から古層が一掃されて、初めて丸山真男が希求した新生日本が出現
するでしょう。第三の開国で早く新生日本の実現を・・・。
それこそが、丸山真男が我々後続世代に託した遺言なのではないでしょうか。

22 :右や左の名無し様:2007/11/08(木) 15:43:32 ID:MGV3Gb9g
丸山真男は有名な”歴史意識の古層”と言う論文で中心文化から遠過ぎもせず近過ぎも
しない(併合もされず無縁でもない)日本文化の特性を”外来文化の圧倒的影響”と”
日本的なものの執拗な残存”の二面性と捉えました。
外来の普遍文化を無制限に受容しながら、それを自分の背丈に合うように修正、日本化
して取り込む型そのものに日本文化の”原型”を見ました。
「日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着
の世界観の執拗な持続と、そのために繰返された外来の体系の日本化によって特徴づけ
られる」ではその受容と修正とは、具体的にどのような形で行われるのか?その事が”開国”
(特に明治維新に於ける西欧文化との接触)の形が問われ、西欧に習った積もりが暴走した
日本帝国軍国主義の形態が問われる理由です。
”雑種文化”と言うより”雑居文化”。
次々らっきょの皮をむくように外来思想の影響を取り外す手順で分析した後に残る物は何か。
それが”執拗に持続する低音”と言われますが、何もなかったと仰っている風にも見えます。
つまり受容する形態そのものが日本文化の”個体性”であれば何も残らなくても当然かも知れません。さて日本は外来文化をどのように受容していったのか、論文”日本の思想”
に入ります。「仏教的なもの、儒教的なもの、シャーマニズム的なもの、西欧的なもの、あらゆる
思想が相互に関連する事もなく、占めるべき位置付けもなくただ漠然と雑居するのが日本思想の
特徴である。新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決無しにつぎつぎ摂取される
から新たなものの勝利は驚くほどに早い、過去は過去として忘却され、時に突如としての「思い出」
としての噴出する」「異なったものを思想的に接合するロジックとしてしばしば流通したのは何々
即何々あるいは何々一如と言う仏教哲学の俗流化した適用であった」

23 :右や左の名無し様:2007/11/08(木) 15:44:29 ID:MGV3Gb9g
「明治の開国期に輸入された西欧思想も既存思想と対決する事もなく、その対決を通して伝統を自覚的
に再生させる事もなく、ただ無秩序に新しい思想として埋積される事によって近代日本人の精神的雑居性
をさらに甚だしくする事になる」明治維新から大戦遂行にかけて座標軸の無い国民精神の統合のために
導入されたのは日本近代天皇制による精神的”機軸”です。
「”国体”は雑居性の伝統自体を自らの実体としたがために、日本人の思想を実質的に整序する原理として
ではなく、否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけ強力に働き、人格的主体(自由な認識主体、責任主体
秩序形成主体)の桎梏となる運命をはじめから内包していたのである」
そして敗戦による”開国”、思想界を覆う怒濤の如き左翼思想の氾濫、六〇年代全共闘の怒れる若者達、情報処理
スピードとパフォーマンスのみを”カネ”で換算する狂乱の現代。
”しっかり”日本型に修正すると言っても、別にどって事無かったようです。
その場その時代で結果だけを”勢い”で受入れ、自分流に解釈するだけです。
あらゆる哲学・宗教・学問を相互に原理的に矛盾するもの迄「無限抱擁」する「寛容」
しかしその「寛容性」は逆に無原則なイデオロギー批判を形成します。
平たく言えば“理屈を言うな、俺に付いて来い”で済ましてしまう(無限包容)は盲目的追従
を拒絶する人間に対する暴力的徹底的反撃(異端の排除)に反転します。無原則寛容の欺瞞性
が暴かれます。無限責任ゆえの無責任の思考様式。
これは”開かれた社会”のようで逆に”閉じた社会”の裏返しです。
戦時軍国主義下の無思想、無責任な絶対権力による支配。

24 :右や左の名無し様:2007/11/21(水) 09:14:06 ID:???
戸坂潤と三木清を足して2で割ったのが丸山真男

25 :右や左の名無し様:2007/11/21(水) 09:15:05 ID:???
吉野作造も足して3で割った感じか?

26 :右や左の名無し様:2007/12/08(土) 16:17:21 ID:q0hUdakB
丸山自身が,そしてわれわれが直面している課題は,ハーバーマスが「近代」の
ポテンシャルとして救い出そうとしたもの,あるいは,ムフが「悲嘆すべき事柄ではなく
むしろ恩恵とすべき事象」とした「同一性の論理と差異の論理とのあいだに存在する
緊張関係」が,日本においては,いまだにその形成すら果たされぬままにとどまっている
ということである。『自己内対話』における丸山は,具体的・歴史的な近代日本社会に
おいて,「開かれている精神」によって「自己内対話」する主体としての「近代的主体」
の形成が妨げられてきた要因を,「異質者としての他者」に対する「他者感覚」の欠如と
いう視点から探りだそうとしている。すなわち,「社会が異質の他者と他者からなるという
前提」が欠如している社会,つまりは「劃一的な平等社会−砂のように平坦で,他者との
けじめがつかない等質的な社会」というのが,丸山が戦後日本に見出したものであった。
敗戦・占領・民主改革という「第三の開国」は,丸山の「戦後民主主義革命」への期待と
実践的なコミットにも関わらず,「開かれた精神」によって「自己内対話」する「近代的主体」
の形成にはいたらず,日本における「永久革命」としての民主主義という「近代」のプロジェクト
は,本格的な軌道に乗ることはなかった。
丸山が言うように,敗戦と「超国家主義」の崩壊という「未曾有の国民的経験」から出発していた
にもかかわらず,「第三の開国」が,「他者を他在として理解」しない「等質的」な「閉じた社会」
の再来に終わったのだとしたら,日本における「近代」というプロジェクトの可能性はもはや永遠
に閉ざされたままとなるのであろうか。

27 :右や左の名無し様:2007/12/18(火) 18:50:12 ID:7ABAowTW
『無責任の体系』
「まず第一に、明治以降の近代国家の成立にさいして、日本は国家を技術的・中立的な
 ものとすることに失敗し、国家が倫理的実体の体現者となってしまった。これは典型的
 には天皇主権にほかならず、それを側面から支えたのは、例えば教育勅語のような
 国家的教育、倫理の公式化であった。つまり国家は、政治権力と精神的権威の両方を独占
 したわけである。 第二に、その結果、主権者はただの力の表象であるだけではなく
 倫理的絶対性の表象ともなる。日本という国家は「大義」を背負った国家ということになる。
 こうして、日本においては固有の意味での権力意識は成立せず、権力は絶えず倫理に
 寄りかかり、支配はつねに外的な(国家が体現する)倫理によって正当化される。
 そして第三に、こうしたことが個人においては、みずから責任をとろうとする態度を
 育てることなく、天皇という価値の究極的実体に責任を転嫁することとなる。
 個人を動かすものは合法性の意識ではなく、あくまでも『究極的実体』への距離の
 近さということになる。この『天皇への距離』が、軍人や官僚に権力を与えるのだが
 しかし、この権力は個人の資質や合法性に裏付けられたものではないので、本質的に
 より上の権威に寄り掛かった無責任なものにすぎない。こうして、誰もが責任を
 とらない、いわゆる『無責任の体系』が成立する」

28 :右や左の名無し様:2007/12/20(木) 23:36:52 ID:JUIHjyXG
>>24
ビミョーなところ。どちらかと言えば三木清に近いだろ。

>>25
思想的&性格的には吉野の系譜に近い。
吉野は丸山が東大に入る前に病死してるが、後年一度でいいから会って
話がしたかった人物と丸山は吉野を評している。

29 :右や左の名無し様:2007/12/23(日) 01:01:21 ID:???
>17>18

30 :とぼけた奴 ◆i3FjaNbBfI :2007/12/24(月) 11:25:33 ID:CS2mu00d
三木も読んだことねーな。「人生論ノート」は読もうとして止めたし。
元はマルクス主義に近かったが転向して昭和研究会に入ったんだっけ?
うろ覚えだが。
結局、丸山は日本の封建的風土がイヤでイヤでたまらず、近代西欧に
希望の光を見出し、理想化してしまったとしか思えんのですよ。

31 :右や左の名無し様:2007/12/24(月) 12:08:13 ID:ZMsuEqlw
俺は反体制でも、戦後民主主義を全否定する者でもないが
国民大衆を欺く民主主義というのは、今更言うに及ばず有るだろう

多くの人が、次元の違いが有ってもこれに似た感情を秘めている。
これをただのピエロの様に思う者は、人生に於いてさしたる辛酸を舐めた経験の無い
おりこうさんであると言えるが・・・・

 http://jp.youtube.com/watch?v=xThzXi0ZCPc       

32 :右や左の名無し様:2008/01/23(水) 17:23:59 ID:a5Qrs7ag
長谷川如是閑
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1179906079/l50

丸山真男が長谷川如是閑について語ったこと

考えてみると、ぼくなんかは幸福だったのかもしれないな。如是閑という人物
が傍にいて、物心ついたばかりのころから「東大というところはバカばっかりだ」
なんて聞かされたのは、悪いことではなかった。
そのなかで、いいこと言っていましたよ。
「学者というのは、頭の悪いヤツが多いけれど、しんねりむっつり一つのことを
 やっている。あれはぼくらには真似できない」と

33 :右や左の名無し様:2008/01/23(水) 21:56:09 ID:???
丸山ってハゲノおじきか?
鬼畜とかいっていたけどハゲキヨの金をもちにげしたらしいね
きっとちょんだろうな

34 :右や左の名無し様:2008/01/24(木) 03:38:26 ID:???
それに包茎だよ

35 :右や左の名無し様:2008/01/25(金) 03:24:38 ID:nOIBv3MZ
民主主義だの、どうだの言っても、この世界同時株安には、全く無力!
所詮、思想的なものは、脳のお遊びの一種にしかない!

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